アメリカインディアン ホピ族の神話

第1章④ 第1の世界 人間の性質・子への儀式

 人間の性質


 最初の知恵が与えられたとき、彼らは大地が自分たちと同様に生き物であることを理解していた。大地は彼らの母である。彼らは母の肉体から造られ、その乳房をすすった。
動物がみな食む草、そして人類のために特に造られたトウモロコシが母の乳だった。
トウモロコシはまた、多くの点で人と似た体をもつ生き物であり、人はその肉を自分たちの肉体とした。したがって、トウモロコシもまた、彼らの母であった。そのように、彼らは母なる大地と母なるトウモロコシという、しばしば同意味をもつ二つの面から母を知るようになった。

 彼らはまた、父を二つの面からとらえた。父はまず宇宙の太陽神である太陽だった。
赤い光タラウバの時代に太陽が現われたときに初めて、人は完全に固まり形をとったのである。しかし、太陽は創造主タイオワが彼らを眺めるための顔にすぎなかった。

 これらの宇宙的な実体がまことの親であり、人間の親は彼らの力が現わされるための器にすぎなかった。近代まで、彼らの子孫はこのことを覚えていた。


 子への儀式


 子が生まれると、母なるトウモロコシがその脇に20日間置かれ、その間、子は暗がりの中で過ごす。それは、体はこの世のものであっても、なお宇宙の両親の保護の下にあるからである。子供が夜間に生まれると、翌朝早くに四つの壁と天井に、コーンミールで四本の線が描かれた。昼に生まれれば、次の朝に線が描かれた。線は、仮の家と霊の家の両方が地上で彼のために備えられたことを表わす。

 一日目に、子は杉を煎じた水で体を洗われる。良質の白いコーンミールが全身にすり込まれ、まる一日そのままにされる。翌日、体を洗い杉の灰をすり込む。これが三日間繰り返される。五日目から二〇日日までの間、体を洗いコーンミールをすり込むのに一日、灰をすり込むのに四日かける。その間子供の母親は毎日少量の杉水を飲んでいる。

 五日目、子供と母親両方の洗髪が行なわれて、壁と天井からコーンミールの線が一本剥がされる。剥がされたコーンミールは次に、臍の緒を保管してある社にもっていかれる。
その後五日目ごとにコーンミールが一本ずつ剥がされて社に運ばれる。
 子供が光をみないよう、一九日間家は暗闇の中に置かれている。二〇日日の朝早く、まだ暗いうちに、子供の伯母全員が家に集まる。誰もが右手にトウモロコシをもち、子供の教母となることを願っている。初めに子供は沐浴をする。次に、母親が子供を左腕に抱きかかえ、右手にもったトウモロコシで子供の臍から頭までを四回扇ぐ。最初のときに、母は子の名を呼ぶ。二度目に長寿を祈る。三度目に健康を願う。子が男子なら、四度目に立派な仕事ができるよう願い、女子ならよき妻と母になれるように願う。

 伯母たちは、自分の父か母の部族の名をとった部族名を子供に与え、同じことをしてからまた母親に子供を戻す。この頃には、黄色の光が東の空に現われ始めている。母は左腕に子供、右手にトウモロコシをもって、自分の母を従えて束に向かって歩く。立ち止まると、東に向かったまま祈り、昇る太陽に向かってコーンミールを投げる。
 太陽が地平線の上にすっかり顔を出すと、母は一歩進み出て子供を太陽にさし出し、「父なる太陽、これがあなたの子供です」という。
彼女は、子が杖にすがって歩くようになるほど長生きし、こうして創造主の掟に従ったことを身を以て証すことができるようにとの願いを込めて、ふたたび同じことをする。母親が終えると、祖母が同じことをする。
そして、二人はこの新しい命のために太陽に向けてコーンミールで道を描く。子供は今や、家族と地球両方のものとなる。母と祖母は伯母たちが待っている家に子供を連れて帰る。村の呼び役が子の誕生を告げ、祭りが子供のために開かれる。子供は数年間、違った名前で呼ばれる。この中でもっとも有力な名前が最終的に彼の名前となり、その名づけ伯母が彼の教母となる。

 七年か八年の間、子供は月並みな地上生活を送る。それからある宗教団に所属して、自分が地上の親をもっていても本当の親は母なる大地と父なる太陽であることを学びとる。そして、自分自身もこの二つの面をもっていることを学びとる。彼は地上の家族と部族の一員であると同時に大宇宙の民でもあるのだ。この認識は、彼の理解が増すにつれていっそう深まってくる。

 そのように、最初の人々は親という存在の神秘を理解していた。また、その原始的知恵において、彼ら自身の構造と働き、つまり人間そのものの性質をも理解していた。
 人の生きた体と大地の生きた体は、同じようにして形成された。いずれの場合も、中心に軸が貫いている。人の軸とは脊椎であり、これが人の動きと機能の平衡をとっている。
この軸に沿って幾つかの波動センターがあり、宇宙全体に原初的な生命の音を響かせ、あるいは悪しきことがあれば警戒を発する。